最先端の哲学 No30

というわけで、最終的結論は「笑顔をつくり続ければマイナスの感情は起こらない」から、笑顔を作る筋肉を鍛えればよいことになります。

その後に「感情」が起こるのです。

インプットは必ずアウトプットを伴っています。

つまり笑顔と言う「インプット」は、脳内でプラスの感情を発生させそこからその感情の後押しを受けてアウトプットが行われて、体に好影響を及ぼします。

これで前篇をおわります。

最先端の哲学 29

支離滅裂、論理迷走の感は免れないですが、結論としては「精神活動」を「インプット、アウトプット」と考えます。

外から入って来る情報がインプットで、それを過去の蓄積された記憶によって、アウトプットとして外部へ情報発信されます。

つまりインプットとアウトプットの折り返し地点(過去の記憶として

蓄積された情報)が自分自身なのではないかと思います。

では「感情」はどういう役割を持っているのかと言いますと、アウトプットとして外部へ発信(動作、言葉、表現、思考など)の際の原動力となるのではないでしょうか?

すなわち感情的記憶の発生がアウトプットとしての「一つのライン」を選択しているのではないでしょうか。

その意味で我々のアウトプット(思考、決定、行動、言動)は感情的記憶の爆発により、後押しされているのかもしれません。

感情によって、後押しされる(選択される)アウトプットのラインは現時点ではただ一っです。

たとえばある思考をアウトプットとして作り上げるとすると、その結果作り上げられた思考は、今度はインプットとして外からの情報となります。

再び話が横道にそれますが、我々は頭の中にある情景、景色を思い浮かべることができます。

それらはたいてい鮮明な姿ではありませんけれど、おぼろげながら全体像を理解します。

そしてその全体像が今度はインプットとして脳の中に入ってきます。

そしてそれは真っ直ぐ進んで折り返し地点(あなた自身そのもの)にぶっかると、感情が作られその感情の爆発によって、次のアウトプットを作り上げます。

そのため頭の中で作られるおぼろげな映像(アウトプット)がもし不幸なものであれば、ストレスが発生するでしょう。

これは折り返し地点の過去の記憶の蓄積が+<-の状態とおなじです。

それでは記憶の蓄積が+(プラス)ということはどういうことでしょう。

当然それはその人にとって好ましい感情でしょう。

結論から言うと、ズバリ笑うということでしょう、

近年は笑いに対する評価を否定する人はいないと思います。

また脱線しますが、神様は人間に強力な武器を与えられたのです。

それが「笑い」です。

 

最先端の哲学 28

笑いをジェームスランゲ的に表現するとどうなるでしょう。

「おかしいから笑うのではなく、笑うからおかしいのだ。」

ということになります。(冗談で言っているのではなく素人的に極めて真剣です。)

この場合のインプットは「笑い」であり、それを生じさせているのは顔の筋肉の骨格筋に相当するでしょう。

この骨格筋がイクオール「涙腺」であり、「顔の筋肉」がプラスの記憶、「涙腺」がマイナスの記憶を発生させることになります。

もうお判りでしょう。

プラスの記憶の蓄積を増大(ストレスの減少)させるためには顔の筋肉を意識して使えば良いことになります。

これはよく「形から入る」という考え方とおなじです。

No27で頭の中の+と-の記憶の蓄積を+>-の状態にすれば、少なくともストレスは軽減されるといいました。

なぜなら現時点の自分は常に未来を予測し、その根拠となるのは過去の記憶の蓄積の

+>-にあるからです

なぜかと言うとその+>-においてしか、未来を自分に説明することはできないからです。

その+>-

でその人の未来を予測する、まさにその時、それ以外の「こころの働き」はなにもありません。

話はだいぶそれますが、私の知る限り、No1の哲学者はデカルトだと思います。

別に彼の著作を読んだわけではありませんが、彼の有名な言葉である「我思うに

、故に我あり」これこそ「心の働き」の本質をつく言葉であり、まさに日本刀の切れ味そのものです。

しかも、その切断面は少しも荒らされておらず、一本の断面が残っているだけでそれが「我思う」になります。

ここには二本の断面は残りません。

だからこそ「我思う、ゆえに我あり」なのだと思います。

これが私というものの本質です。

そしてまさしく、この本質で本質を否定するのは不可能です。

ゆえに否定できない以上「我あり」となるのだとおもいます。

何だか話が混乱してダッチロール気味になってしまいましたが、もしまだ熱心に読んでいる方がおられましたらお許しください。

 

最先端の哲学 No27

頭の問題(ストレス)を頭で解決するのは、無理があると言いましたが、このブログの理論(想像力拡大の理論)も頭(論理)で構成されているため無理ということになりますが、無理ではありません。

なぜならこのブログの理論は「物」から「精神(物ではない)」への移行理論だからです。

我々の不幸は物に執着するからです。

そのために物から脱却すれば、我々の(宗教的不幸)は解消されるのではないかと考えます。

この一点においてこのブログの理論は、その他のそれと決定的にことなります。

さてNo26の最後で頭の中に、「プラス」の感情的記憶と「マイナス」の感情的記憶を設定(蓄積)すると述べました。

しかし考えてみると、この世の全てが何らかの記憶の蓄積で成り立っています。

木の年輪然り、株価指数然り、科学も過去の膨大な記憶の結果です。

また「+」「-」にもどりますと、ストレス(不安)を強く被っている人は頭の中に、「-」の記憶の蓄積が多くあり、「+<-」と言う状態になっていることになります。

ここまでくると、ストレスを解消するのは明らかです。

要するに頭の中の感情の蓄積を「->+」から「-<+」の状態にすれば可能になるわけです。

それでは具体的な方法になりますが、そのためにはすでに述べた、ジェームス、ランゲの仮説を思い出してください。

「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ。」です。

結論から言うと、外から入って来る情報は、最初目の涙腺に到達して涙を流させ(インプット)、これが頭脳の中枢へフィードバックされ、頭の中は悲しみのモードになります。

同時にそのモードが外部へ発信されます。(アウトプット)

これは前半がインプット、後半がアウトプットです。です。

このアウトプットは悲しみの記憶として頭の中に蓄積されます。(これがマイナスの記憶の蓄積になります。

このマイナスの記憶の蓄積はストレスを増大させます。

ここで突拍子もないことを言いますが、もしあなたが意図的に涙を流すことができたならば(役者の中には事実存在しますが)頭の中を悲しみというマイナスのモードに転換できることになります。

この奇想天外な論法をもってすれば-と+の蓄積を逆転させることも不可能ではありません。

なぜならプラスの記憶のモードが作られるようなインプット(涙腺)を探せばよいからです。

 

 

 

最先端の哲学 No26

このブログで言うところの価値とは「+」「-」と言う二つの表現です。

しかもこれは感情的価値です。

つまり喜怒哀楽の喜と楽を「「+」、怒と哀を「-」というように分類します。

論理的価値(哲学、思想)などは問題にしません。

今日世界にはいくつもの宗教が存在して、その宗教理論(教義)はそれぞれ異なります。

これらの宗教理論(宗教に限らず人間一人一人の思考)の基礎部分が、このブログの理論に相当すると思います。

ゆえにもし近い将来宗教が統一するようなことがあれば、このブログの理論が「共通項」となりえると思います。(素人はこれだから恐ろしい)

大言壮語もここまでくると開いた口が塞がりませんが、永遠の問題として「この世に神はいるのか?」というのがありますが、答えはこうです。(素人の答えです。)

「この世に神などいない、なぜならもしこの世に神がいるとするならば、もはやそれは神ではないからです。すなわちこの世に神はいないからこそ、神は存在するのです。」

(馬鹿と素人ほど怖いものは居ません)

世の中の「よくわからないもの」「不可能なもの」「科学で解明できないもの」の

総元締めは神様と思います。

皆様も経験されたと思いますが、宇宙の先はどうなっているのだろう?

物体をどんどん切断していったらどこまで行くのだろう?などと空想しますが、後者の答えは素粒子だそうですが、何故こういう疑問が湧いてくるのかと言えば、脳の構造がそのようになつているからです。

つまりこれは車のタイヤがぬかるみにはまつて空転しているのと同じことなのです。

脳の中で空転しているからです。(素人は本当に気楽でいいですね)

この世の混乱の原因は、論理的思考によって矛盾(ストレス)を解決しようという姿勢にあると思います。

すなわち論理的思考を解決手段にしようとするのは「マフィヤとのトラブルの解決を別のマフィヤに頼むことであり、血で血を洗う行為と同じだと思います。

頭の問題(ストレス)を頭で解決しようとするからおかしくなるのです;

頭が先で、感情が後ではなく、感情が先で、頭はその後です、(ジェームスランゲの仮説)

感情が人間の全ての表現方法の後押しをしているのです。

そしてそれらは全て非感情的記憶、感情的記憶として頭の中に蓄積されます。

前者は人間が何かに集中した時の論理的記憶です。

人間が悩むのは非論理的思考を行っているからです。

つまり感情が非論理的思考を後押ししているのです、

そこで頭の中の感情の蓄積を二っに分けます。

プラスの感情とマイナスの感情と言う二っの感情の記憶の蓄積にわけます。

多分ストレスを強く感じている人は プラス<マイナスという状態であり、その反対は

プラス>マイナスの状態となります。

 

最先端の哲学 No25

前回の「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」はどういうことかと言うと、最初の「悲しい」とは脳が悲しいと認識したから目の涙腺に命令して涙を流させたという意味で、「脳」が先でそのあとに泣く(涙)が来るという誰でも当然に考えるパターンですが、そうではなく涙腺で涙が流れてその情報が脳にフイードバックされて、初めて脳は今は悲しいのだと認識するため脳全体が悲しみのモードになります。

つまり涙腺が先でその後に脳が来るのが本当であると言っているのです。

脳が人間の体の支配者であるとすれば、これが本当なら由々しき大問題になります。

なぜならほんのわずかな時間とわいえ、体の一部である涙腺から脳へ「涙が流れたという情報」がフィードバックされる間、支配者としての脳は完全な積んぼ桟敷にされたことになるのです。

つまり脳が認識するにはタイムラグが存在するのです。

インプット(外からの情報)の着地点体の一部(涙腺)、そして次に脳となるのです。

同時にこの時点では脳に今まで蓄積された記憶は最新のものではなくなります。

このもう最新でなくなった蓄積された過去の記憶を呼び起こして、現時点では存在まだ存在しない未来を自分に説明するのです。

これがこころの働きになります。

よく運命論という表現があります。

つまり何事もそうするように運命ずけられているというもので、それに従えばこのブログもそうなるように運命ずけられていることになります。

これの反対概念が自由意思になります、

これは全ての決定は脳が完全に独立して行っているというわけです。

これは悪魔でも体の支配者たる脳が、外から入って来る情報に対して完全に独立した反応をするということです。

常識的にはそうですが、最初のほうで述べた「タイムラグ=脳が積んぼ桟敷におかれる時間」が使えるとすると、少なくとも脳は受け身的な決定にならざるを得ないわけで、そうなると脳は自分自身ではなく自分以外の要因によって決定することになり、とても自由意思ではなく運命論的にならざるを得ません。

となると私の独自の意思で意見を言っても「タイムラグ」のせいでその意見は別のものに言わされていることになり、その意見を言った本人はこれは自分の考えで述べたのだ

と完全に信じ切っているのです。

最先端の哲学 No24

前回シンプルに説明すると言いましたが、再度、要点を繰り返しますと、

すべて文字通りすべてのものが現在(現時点)の中にあります。

そして主人公は「あなた」です。

現在では未来は存在しません。(時間が経過していない)

過去も同じように存在しません。(時間が経過してしまっている。)

ただ過去は記憶として頭の中に蓄積されます。

頭の中における膨大な過去の記憶の蓄積が、今までのあなたの人生になります。

「なぜ?」と聞かれても困りますが。

今までは「現在」を三等分(始め、中間、最後)した中の「中間、最後」を説明してきました。

「中間」は想像力の拡大、「最後」は3次的ストレスです。

残るは「始め」だけです。

前回、もっとシンプルに説明すると述べました。

そのためには「インプット」「アウトプット」という用語を使って説明するのがわかりやすいかと思います。

つまり現在は「インプット」で始まつて「アウトプット」で終わるというように。

もし未来の結果が悪くて3次的ストレスが起った場合、マイナスの感情が発生して、その後押しによって「悔しそうな表情、後悔するような言葉」などを外に向かって発信します。

これが「アウトプット」になります。

要するにインプット(外からの情報)に対する脳の反応(アウトプット)になるわけです。

それでこのあとはインプット(外からの情報の入り方)を考えればよいことになります。

そとからの情報はどのようにして我々の脳に入ってくるのかということですが、外から入ってくる情報が大脳(?)に入ってきて認識されるというのは間違いではないでしょうが、これでは面白くも何ともありません。

でもこれについての興味深い仮説があります。

この仮説についてはいろいろな意見があるみたいですが、その当時の新聞の見出しは「悲しくなるから、涙が出るのではなく、泣くから悲しいのだ。」だったそうです。

これが「ジェームス、ランゲの仮説」です。